クスカワ『自然の書物を描く』第6章

Sachiko Kusukawa, Picturing the book of nature: image, text, and argument in sixteenth-century human anatomy and medical botany, (Chicago and London: The University of Chicago, 2012), 124-136.

Chapter 6 Arguments over Pictures: Reactions to Fuchs's De Historia Stirpium

この章では、図版をめぐる論争でFuchsのDe historia stirpiumへの反応を例にとり、人文主義者らの態度を明らかにしています。本の中の図版の使用に関する人文主義者らの態度の特徴に共通するものはありませんでした。FuchsとCornariusのそれぞれの態度は両極端なものでした。FuchsはDe historia stirpiumの中の図版を古典的知識の復活に不可欠なものとしていた一方で、Janus Cornariusは、そうしたやり方に異議を唱えました。そして、図版の機能と使用はDe historia stirpiumの多様な翻訳の中で変化したことが述べられています。
 Cornariusは1557年にDioscoridesのDe materia medicaの注釈本を出したとき、図版に対する異議を繰り返し述べました。すなわち、生きている植物からしばしばその絵の見分けがつくのであって、植物の図版からは生きている植物の知識はけっして得られないとしています。Dioscoridesは季節や地域による植物の移り変わりに注目する必要があると言っていました。しかし、Cornariusは、書き記されていないなら図版は地域や季節の特徴を描いていないと主張しました。このことはCornariusが図版をある時ある場所での特定の植物を表現した“counterfeit(模造品)”の形式であると理解していたことを示唆します。また、Cornariusの「図像」は他の昔の人々の言葉による表面であり、彼の目録で彼はpicturaという語を植物の形状を言葉で描写するのに用いていました。いうまでもなく、彼の注釈本には植物の版画は一枚も載せられていませんでした。Cornariusは、彼の人生を通じて、古代の人々の声を聞いたり読めるようにギリシャ語の文献を編集し、それらをラテン語に翻訳して古典医学の復活に携わっていました。
 CornariusとFuchsは基本的に同じ古典を使いましたが、それらの扱いは全く異なったものでした。Fuchsは、Discoridesが十分でないとみなしたところは喜んで補足し、彼自身が(図版を通して)識別した植物や薬効が根拠と経験を通じて植物の薬効を確立するガレン派医学の実践と適合しているかを示しました。他方Cornariusは、極めて神聖なのはDiscoridesの言葉であって植物の図版は“counterfeit”の意味で無駄なものでした。Fuchsはガレン派医学の復活において図版を効果的に使うことを見出しました。一方、Cornariusのギリシャ医学の復活は古代の著作者の声と言葉を通じて行なわれました。
 図版の使用をめぐるCornariusとFuchsとの論争は当時よく知られていました。Pietro Andrea Mattioliはこの争いを裁くことにしました。ガレノスが植物の図版は植物の知識を得るのに有用ではないと言っていたとしても、このことは植物や動物の図版が載せられている本がそのために批判されるべきということにならず、実際にMattioliはガレノスが図版の使用を批判している箇所を見つけられませんでしたが、そのかわり影響力のある著者によって書かれた本で植物について読みそれらの図版を調査するだけで植物の専門家のふりをする人々を非難していたことを見つけました。MattioliがCornariusを批判したことは、Fuchsが無条件に称賛されたわけではありません。彼は、De materia medicaの1558年の注釈中で70以上のFuchsの間違いなどを列挙しています。Mattioliの図版に対する態度はFuchsとCornariusとの両極の間のおそらくどこかでしょう。彼自身は彼の本にも木版画を入れている程度には図像が重要とみなしていました。このように一つのグループとして人文主義医者や大学で教育を受けた医者らの図版に対する態度が一致したものとするのは不可能でしょう。 
 Fuchsは1545年に八折版の草本誌を出版しました。この版は基本的に図鑑でギリシャ語、ラテン語とドイツ語の名前が植物の木版画の図版の上で頁の上部に記されていて、植物の属性や医学的用途などのテキストや議論は書かれていませんでした。Fuchsが小さいサイズの出版物を出した主眼点を、ラテン語の本はかさばり過ぎで家の中でしか使えませんが、小さい本は戸外に持ち出せるし、Fuchsを中傷した人や剽窃した人たちによる図版が彼が評価しているSpecklinによるものよりどれだけ劣るものかを読者が直接比べられるように製作したと説明しています。いまや識別は図版の形式をとった学術的事実となりました。また、FuchsはDe historia stirpiumをドイツ語を読む“common man(庶民)”の医療ニーズに対処するように変えました。もはやガレン派の良い医者向けの植物の普遍的な歴史ではなくなり、結果的に図版は古代の人々の本来の知識を復元する論争的役割を果たさなくなったのです。本の性質と本の中の図版の機能は変化しました。FuchsのDe historia stirpiumはコピーされ、他の印刷評者に再コピーされるにつれ一層の変化を被りました。Fuchsの先達に対する恩恵は強調され、図版の重要性は軽視されました。たとえば先進的な出版業者は、Fuchsが広く主張したことをパリの環境に合うように置き換えました。彼の図版はDe historia stirpiumにおいて植物に関する古典的で普遍的知識に不可欠なものでしたが、薬草を扱う全ての著者が本に図版が必要とみたわけでもなく、図版を入れた著者であっても必ずしもFuchsの確信を分かち合うことも同じような方法で図版を利用するわけではなかったのです。