クスカワ『自然の書物を描く』第8章

6/20/2012
下野葉月(人文社会系研究科)

Picturing the Book of Nature by Sachiko Kusukawa
Chapter 8

 Gessner vs. Mattioli
ディオコリデス(circa 40―90 AD)によるDe Materia Medicaに収められた植物、aconitum pardalianchesのアイデンティティーをめぐって、ゲスナーとマティオリが対立し論争を展開。問題となった植物aconitum pardalianchesをディオコリデスは以下のように描写。
シクラメンやきゅうりのように三枚ないし四枚の葉をもつ。根は蠍の尾のようで、石膏のように輝く。蠍のそばに近づけると蠍を失神させ、ヘレボルス根を近づけるとまた動きだす。目の鎮痛剤と混ぜられ、肉の上に載せて動物に投げると、ヒョウや豚、オオカミなど、野生動物が殺される。
これに一致する植物が当時何と呼ばれる植物であるか、またどのような姿形をしたものかについて、ゲスナーとマティオリはそれぞれ異なる見解を提示し、平行線を辿る。
1542 ゲスナーがaconitum pardalianchesとはtoraと一般的に呼ばれる植物と同一のものだと主張。
1542 フックスは、una versaもしくはherba Parisと呼ばれるものだと主張
1544 マティオリは著書『De material medica 注解』の中で、aconitum p.をトレントナポリ、ローマで見かけたことがあると言及。
1551  ゲスナーはaconitumがオオカミに毒であり、現在toraと呼ばれるものだと繰り返して主張。
1554 マティオリはaconitumがherba Parisだとしたフックスが間違っているとして、本物のaconitumの絵を提示(p166, Fig 8.2)
1555  ゲスナーがルナリア(lunaria)と呼ばれるについての本を刊行。(『夜に光るからあるいは他の理由でルナリアと呼ばれる希有で素晴らしいハーブについて』) この中で、aconitumの絵を挿入(p166 fig.8.3)し、toraがディオコリデスの言うaconitum であり、その判定は十年以上も前に自らが提示し、それが世界で初めて提出されたaconitumの絵だと主張。 
→ゲスナーは絵の存在が、植物のアイデンティティーを決定づけるものにならないと了解していたため、絵の信憑性を示すために学者や医者を引き合いに出し、彼らの権威をもって、ディオコリデスがaconitumと名付けた植物を同定しようとした。
1558  マティオリは『De Materia Medica注解』の新版を出し、ゲスナーの性格を嘲笑。ゲスナーの絵は、本物からかけ離れたものだと批判。(シクラメンやきゅうりのような葉はどこ?蠍のような根はどこに?)「自分の目で見るまで、自らの土地や海から離れた彼方にものが存在することを信じないとは、何という強情だろう」と嘆き、見ることへの過度な依存は、知の限界となるのだ述べ、古代のテクストを習熟すること、事物を研究すること、そして他者と自己を信じることの重要性を説く。
1563  マティオリは今までよりも大きな図版を用いたドイツ語版を刊行。この中にもaconitumの絵を挿入。
総じてaconitumのアイデンティティーをめぐる論争において、絵は役立たなかった。ゲスナーは学のある友人や知人の援護を求めるが、その一人のDonzelliniという医師はマティオリ派についてしまう。彼は「自然と一致しない植物の絵は、マティオリによる同定の反証にはなりえない」と述べる。学術的論争をおさめるために絵の権威は限定的だと結論づけられる。

 Gessner on Jamnitzer
 ゲスナーは著書Historia Animaliumを鉱山の町であるフライバーグの議員Graviusにささげた。そのお礼として、Handstein, lapis mineralis, Bergwerk等と呼ばれる鉱石や化石の組み合わせから成るオブジェと、バッタと蜘蛛を象った銀のnature castをもらう。両方ともJamnitzerによって自然から作り出された作品。Nature castは虫や小動物の型をとり、そこに金属を流しこんでつくられたもの。このnature castはゲスナーの美学と合致したため、彼はこれを以下のように褒め称える。
• nature castはイメージではなくres ipsasであり、”auto to auto (itself itself)”であるとする。これはプラトンが唱えた概念で、例えば人間に共通する人の形状のような「共通の要素」を表す。
• nature castはParrhasiusに匹敵する芸術作品。プリニウスによれば、Parrhasiusは鳥が飛んできてしまうぶどうの絵を描いたZeuxisを凌ぐ芸術家。(彼の描いたカーテンをZeuxisが本物だと思いこんでしまったから。)
➢ ゲスナーはプリニウスの理想に従って、最も優れた芸術は自然を最も忠実に模倣したものだと考えていた。
• Nature castは自然のオブジェを形成する姿や形を再現しているため“ad vivum”である。→当時ad vivumとは、眺める人にもたらされる影響に関係していた。ゲスナーが考えたad vivumの要素は、形を構成するラインや色で、それらへの執着はゲスナーの絵―はっきりとした輪郭をもち、鮮やかな色使いの水彩絵―にも表れている。彼にとって、表象が、表象の対象以上に本物のように見えることが理想だった。
ゲスナーは動きや味や香り等をも喚起させることができる芸術家を賞賛。言い換えれば、他の感覚にも働きかけるような強い視覚的感覚を支持。見るだけで事物とその性質を認識するのに充分であるような視覚のあり方を称揚した。 

<自然とヒエログリフの喩え>
 ゲスナーの時代に学者を虜にしたヒエログリフ。ゲスナーもBolzoniによるヒエログリフの書(1556)を読み、自然の中にはヒエログリフがあり、それは自然の事物以上のもの(例:神の偉大さ)等をあらわすと考えていた。ゲスナーによると、自然に見出されるイメージや形は神のヒエログリフで、植物や化石の各グループごとにヒエログリフがあり、それが種の本質を伝えるものだと考えた。
 ゲスナーは自然の研究は神を讃美することに等しく、historiaは神の英知と善への讃歌だと考えた。自然のヒエログリフである植物などの姿や形を辿り学習することは、ゲスナーにとって宗教的意義のあること。絵を描くことが自然を学ぶ最善の方法であるのは、神が自然に線や形や色を付したから。ゲスナーはこうして神によって描かれた書物である自然の学習を、本と他者の啓蒙を介して行った。ゲスナーによる植物の絵は、自然の書物からの頁と位置づけることができる。ゲスナーにとって、絵は知の形成に重要な役割を担っていたのだ。