Ann Blair, Too Much to Know, ch. 2

Ann M. Blair, Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age (New Haven: Yale University Press, 2010), 62–116.

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

第二章 情報管理の方法としてのノートとり

 初期近代における参考書の増加は、当時流通していたノートの取り方に関係する。このころからノートは一時的なものというよりも、将来参照され共有されうる長期的な価値をもつものとして位置づけられるようになる。
 15、16世紀に新たなノートのとり方が注目されるのは、人文主義教育の影響に因る。古典ラテン語の源泉に戻り、古代の修辞法を学ぶために卓越した文章を抜粋して書き写し、後にそれを参考に作文し引用する。こうしたcommonplace bookの使用はエラスムスやヴィーヴェス等の人文主義者達に共通して現れ、当時ノートをとることの価値を称揚した本もよく売れていた 。初期近代の教育者は読書中に遭遇した文章を書き写し、commonplaces(loci, topoi) と呼ばれる見出しをつけて整理すること勧めた。
 一般的にノートは情報を長期的に保持し蓄積する役割を果たした。ノート取りの指南書を書いたSacchiniやDrexelによれば、書き写されたものはより頭に残るし、ノートをとることによって読み飛ばしを回避し、ものごとを記憶に残し理解を促すことができる。Drexselは多くの著作を残した人は皆読んだ著作からの抜粋を書き写していたと考えた。トマスやモンテーニュは自分の記憶を手がかりに著述したのであてはまらないが、Drexelは長年にわたりノートを蓄積させ、いつしかそこからまとまった見解を述べることができるのだと考えていた。
 多くの人は自分のためだけではなく同時代や後世の人々のためにノートをとった。例えばプロヴァンスの貴族Peirescは何も出版しなかったが、常にノートをとり、いつでもそこに書き込めるようにし、依頼があればそれを記憶を辿って引き出せるようにしていた。その一方で、ライプニッツは自分のメモを見つけることができないと嘆いていたし、ボイルもメモの整理がうまく出来ていなかった。当時ノートの整理に用いられたのは見出し付けで、それぞれの見出しの下にメモがまとめられた。どのような見出しをつけるか、またどの見出しから情報を得るかは、それなりの判断力を必要とした。エラスムスは見出しを細かく枝分かれさせることはよくないと考え、作文する際に使える見出しのみ絞るのが得策だと考えた。イエズス会の教育者も40ほどの見出しのみの使用を勧めた。Drexelはノート一冊ごとに索引を作成するために、文章のテーマに則したアルファベットを付すことを勧め、ロックは見出しをノートのはじめに箇条書きし、見出しの冒頭の子音と母音ごとにまとめ頁番号をつけるという方法を流行らせた。18世紀になるとノートの索引作りは一般的になり、多岐にわたるようになる。19世紀には図書館のカタログ編集者(catalogers)が職業となり、使用される索引が標準化され、デューイ10進分類法や国会図書館出版の索引題目など分類の規格化が進んだ。
 一つの事項が複数のカテゴリーに属することを理解していたライプニッツは、そうした分類の多義性を機械的に処理することができる道具に注目した。それは、アルファベットごとに作成された縦長の銅板に据えられた突起にメモを掛けることができる「クローゼット」で、これによって状況に応じてメモの掛替えを容易に行うことができた。(p95. Fig.2.1, 2.2)
 小さなメモ書きやカードは近代の情報管理に重要な役割を果たす。図書館の目録も次第に製本されたものからカード形式に移行され、20世紀初期になると研究や調査の指南書は、カードにメモすることを勧めるようになる。書込みが可能なカードが作成される前は、トランプの裏が用いられ、モンテスキューもこれを実践していた。細長い紙片を貼付けるという手法もよく活用され、十六世紀の図書館目録やノート、印刷所に出される写本等にそうした紙片が散見される。ゲスナーはアルファベットの索引を作成するために、紙片を用いることを奨励した。まず索引に入る項目が書き出され、後で並び替えできるように短冊状に切り取られ、別の紙に糊で貼付けられる。十七世紀の図書館目録の多くはこのように作成された。
 先述のクローゼットの共有に象徴されるような共同作業の研究に昨今注目が集まりつつある。ノートを取るという行為は一人で静かに行われるかのように思われがちであるが、実際は写字生や召使いや家族等による協力のもとで行われていた。科学史家はベイコンが提示した階層的な共同作業に焦点をあててきたが、最近ではそれが異なるタイプの共同作業の影響を受けたものだと指摘されている。例えば1559年から1574年の間に、伝統的なカトリックの歴史に対してまとめられたルター派の歴史The Magdeburg Centuriesという13巻の著作は、15人から成るチームによって編纂されている。こうした共同作業は教育の場でも奨励され、学力が同等の仲間で集い、役割分担を決めて勉強し、仲間が書き記したcommonplaceを書き写すこと等が薦められた。
 しかし初期近代の学者の殆どは自分よりも学識的にもしくは社会的に身分が低く、名前を残さなくてもよい人に手伝ってもらっていた。エラスムスは少年のお手伝い(puer)や召使い(famulus)を雇い、口述の書き取りや校正、文書のまとめや翻訳、メッセージの配達等の援助を受けていた。こうした関係が信頼関係に変わることもあったし、また文章の剽窃や物品の盗難などが発生することもあった。十七世紀になると「機械的」と形容される仕事―索引作りなど―が外注されるのが一般的となるが、判断が必要な仕事と機械的な仕事の境界は曖昧で、個人差があった。
 ノートは本人のためだけでなく他者にも価値をもたらすものであった。プリニウスや偉大な法学者のノートに多額の値がつけられることがあったが、自分のノートを売りたがる人はあまりいなかった。ゲスナーは異例で、自らが残した絵やメモを将来出版してくれるであろう教え子に売った。しかし彼のHistoria Plantarum は三代目の所有者によってようやく18世紀の半ばに出版される。博学者のノートを死後に求めることができたケースもあるが、ノートの引渡は遺贈によるものが最も一般的で、遺書にその保存や親族への相続が記された。家族以外の人への遺贈はノートが同じ職業の人によって活用されることへの期待の表れであろう。
 初期近代の共同プロジェクトの多くは、複数の人によってまとめられたノートの編纂によるもので、他者のために書かれた参考者は、多くの貢献者のノートの集大成とも言えるスケールの大きいプロジェクトであった。