Blair, Too Much to Know, chap. 5–epilogue

Ann M. Blair, Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age (New Haven: Yale University Press, 2010).

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

【第5章】印刷された初期リファレンス書の影響
■広範な分布(地理的、年代的、社会的)
リファレンス書は一般的に、西欧の出版の中心地で作られますが、『ポリアンテア』のように最も成功したものは、宗教・政治・言語を超えてヨーロッパ中を流通しました。出版社は宗教を超えて書物の交換を行いますが、教会や国家は宗教的・道徳的・政治的な危険性から検閲などの統制を試みました。

リファレンス書は、書物へのアクセスが限られる場所で特に重宝しました(ex.ヨーロッパの外など)。またex libris(〜の蔵書より)を見る限り、それらは最初に出版されてから長い間使われ続けたことがわかります。新品の値段はカタログには普通は書かれておらず、同じ本でも値段がかなり異なっていました。また、古本になると急に値段が下がりました。

多くのリファレンス書のex librisには宗教的・教育的組織が記載されています。初期近代の大学の図書館では、書物は寄贈や遺贈によるものでした。それに対し、カトリック修道院では書物を買うための基金を作りました。また、医者・法律家・聖職者・教師・貴族といったラテン語の読める多様な人々に使われていたことが読み取れます。

■使用の種類
リファレンス書のセールスポイントは多機能性にありました。引用や例文の編集は、ラテン語の作文で古典や聖書の習熟をアピールしたい人たち全てに役立つものでしたが、主要な利用者は人文科学の教師と学生でした。

これらの例から、リファレンス書は他の典拠を証明したり訂正したりする権威的な情報源であると言えます。しかし、同時代的にはリファレンス書を証明のために使うというコメントは見られず、批判されたり隠されたりしました(ex.ノーデの証言・シルヴェスター)。また、文学作品における嘲笑の的として使われることもありました。こうした否定的な描写にも関わらず、リファレンス書は一定水準の富と学を示すステータスシンボルでした。

■出版された著者たちによる使用
要約を使うことはスティグマになるため、初期近代の著者は文献を明示しないことが多くありました。しかし、そもそも彼らは使用した文献を明記する義務を感じていなかったようです。彼らにとって、引用は知的な誠実さではなく、修辞的な戦略でした。また、暗黙の引用それ自体は不名誉なことではなく、むしろ引用を明示することは、読者の知性を信頼していないことになり、読者への侮辱と見なされるリスクがありました。

■手書きのノート
リファレンス書のインパクトは、写本の編集や目次にも見ることができます。多くのマニュアルは見出しと材料をリファレンス書から借りてくることを薦めていました。メモやノートからは、リファレンス書を通して検索装置(finding devices)や参照的な読書方法(methods of consultation reading)が定着していったことがわかります。

■リファレンス書への不満
多くの文脈において、リファレンス書が引用や要約を提供したことは、不満を生みました。要約が原文の喪失をもたらしたという不満には長い歴史があります。また、要約に頼ることで読者が原文を無視し、誤解が生まれてしまうという不満もあります。

しかし、初期近代ヨーロッパにおける不満はより限定された形を採りました。それには、下手に選ばれた引用を積み上げる傾向を嘆くものや、引用を溜めることで、言いたいことがなくても書けてしまうことを非難するものがありました。また、リファレンス書は文脈に関係な無差別に引用を積み上げることが批判されました。

不満の根底には、16-17世紀における大きな文化的変化のただ中で、ラテン語の地位が変化していたことがありました。各国語が使用されるようになり、ラテン語を習得していた人は、同時代人に見られる低レベルの学習を批判しましたが、地位の低下は明白でした。こうした変化に関して、Intellectual historyではリファレンス書よりもデカルトの影響の方が大きいと見られています。

■古代から近代への転換
人文主義から啓蒙主義への変化には多くの要素が挙げられるでしょう。Paul Hazardは1680年〜1715年を決定的な変化の時期だと言いました。これは、古代の文化・伝統に対する言及でなく、新しい理論や観察へと関心がシフトした時期です。ラテン語のリファレンス書が最後に印刷されたのもこの時期でした。

しかし、当時の人は辞書の増加を指摘していました。この時期、ラテン語ではなく新しいジャンルの事典が出てきていました。ラテン語辞書も無くなりはしませんでしたが、範囲・焦点を絞ったものになります。また、この頃の各国語辞書や伝記的な事典は、ラテン語や古代に関する従来の辞書を踏襲した形でした。

チェインバースのCyclopaediaからディドロダランベールの『百科全書』に至る学芸の事典は、近代の百科事典のモデルになりました。近代の学芸に関する事典は、ラテン語のリファレンス書をモデルにしているとは認めていませんが、その影響なしでは成立しなかったでしょう。またリファレンス書は、専門家に留まらない一般的な読者に対し、参照的な読書(consultation reading)の方法と道具を普及させる契機となりました。

【エピローグ】
情報の管理やリファレンス・ツールの発展の多くは、18世紀の近代的な百科事典の基本的な形を強化したものだと言えます。とはいえ、近代のリファレンスに関する仕事の歴史には、現在まで続くものばかりではなく、失敗したものもあります。また、コンピューターによって、人間が投資してきた多くの労働は古びたものになるでしょう。しかし、過去の幾世代にもわたって作り上げたリファレンス・ツールは、様々な形で利用することができます。

歴史研究が現在に対して明確な教訓を示すことはなかなかありません。1500-1700年のリファレンス書や手書きのノートを扱ったこの話は「衰退の物語」とも、新しい技術の「成功の物語」ともとれるでしょう。しかし、私としては(楽観的ではあるものの)、両者から距離を取ることを試みました。

技術には限界があります。歴史家として私は、古い情報源に再度アクセスする能力を心配しています。歴史家は他の人々にとっては意味がない素材に新たな問いを立てることで研究しています。今回私が試みたように、印刷された初期リファレンス書は現在でも作業の道具として効果的なのです。