参加記:研究会「マイクロヒストリーを超える科学史 Clio Meets Science」

(IさんがFacebook上に研究会参加記を投稿していたので、許可を得てこちらに転載させていただきました。)


 科学史専攻の方々が主催する読書会「マイクロ・ヒストリーを超える科学史」に参加してきました。科学史の専門誌 Osiris の第27号で組まれている特集 "Clio Meets Science"−−なんてお洒落なタイトル!―― をたたき台にする、科学史研究のヒストリオグラフィについて議論です。

 Introductionにおいて、非常に細かいテーマに細分化され、タコツボ化してきた科学史の現状を乗り越えるべきこと語られます。ここまではまさにうちの科研が問題視している部分と同じ!しかし、ここでは個々の研究を繋いでいくような大きな物語を描く"big-picture thinking"とも目指す方向が異なることが述べられます。志向されているのは"mesoscopic approach"(黒田明伸先生的!)とも言うべき、中間領域研究。その実は個々別々の細かい研究なんだけれども、他分野に開かれた研究。僕の理解で言えば、本文は超専門的だけど、序論と結論は「誰でも」楽しめるような論文/研究というイメージかなと。。具体的にどんなアプローチなんだというのが気になるところですが、僕は今回の特集号でこれについて語られたであろうHoraizons以降の論文を読んでこなかったので…また読んでからこれについては論じます(汗)。

 議論でメインに扱われたのは先のイントロとReflectionsの3論文でした。Golinskiが論じるように、かつて実証主義と手を取り合い、誕生・発展してきた「単一で普遍的な科学Sciences」言説とそれに根差した「科学史」研究は、ポストモダンの文化相対主義的思考の中でその実存が大いに疑問視されるようになりました。ここで「多様性があり文化的に規定されうる科学Sciences」をまとまったものとして「科学史」の名のもとにいかに扱っていくのか。Dearはこの問いに対して語りの軸となる2つの要素、自然哲学(natural philosophy)と手段となる者/物(instrumentality)とを持ちだします。これを手掛かりに通時的・広域的な歴史叙述が可能になるとするわけです。「単一の科学」が脱構築されたポストモダンの時代、バラバラにされたのは科学や科学史家だけではありませんでした。Formanが論じるのは、そもそも「定まった」価値観に立脚する近代知を背景に成立した「でぃしぷりん」自体が、ポストモダンの相対性のなかで大いに揺らいでいく事態なのです。

 知的興奮を大いに得ることのできた議論で、語るべきポイントは無数にあるのですが、うちの科研との関わりで「近代科学」の歴史化についての議論について述べるべきでしょうか。科学が必然的にuniversalityを伴うものではないのであれば、ヨーロッパという特定の地域から出た科学a scienceがなぜ世界的に広がったのか。その説明には、そもそもそれが普遍的だったからグローバルなものになったのではなく、グローバルになったから「普遍」ということになったのだという問いの転倒が有効になるであろうと、a scienceがa sort of the scineceになっていく過程を説明することが科学史に課された重要な使命であろうというところです。

 この問題については論文を書いた覚えがあるのですが、う〜ん、いつ出版されるのでしょう(苦)。今回も非常に楽しむことができました。主催者の皆さま方に、心よりの感謝を!



投稿日:3月9日1時42分
オリジナルURL(限定公開):http://www.facebook.com/yoichi.isahaya/posts/561767013847523
研究会概要:http://d.hatena.ne.jp/hskomaba/20130309/1362847319